鱗雲

牧野信一

鱗雲書籍情報


底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
   1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄

鱗雲 9

牧野信一

 こんな海の傍に居ながら、この静かな夕暮の海辺の景色を眺める閑もなかつたのか! 俺は! ……私は、帽子をかむつた儘何時になく落着いて、暮れて行く海原を眺めてゐた。
「机の上にはペン一本載つてゐない。部屋中には本一冊見当らない。約束のハガキは書いたの、東京のお友達に?」
「さうだ、忘れてゐた、エハガキとペンとインキを買つて来て呉れ、大急ぎで――あゝ、悪いことをしてしまつた、此方で会ふ約束がしてあつたのだ。遊びに来て呉れるんだ。俺が此方に居る間に――」
「だから吾家に引き上げたら如何? どうせ斯んな風にしてゐる位ひなら……」
「云ふのは、たゞ面倒だから止めてゐるが俺は何もお前が相像してゐるやうな悪い生活を此処に来てしてゐるわけではないよ。」
「だからさ、吾家で凧でも拵えてゐれば好いぢやないの。折角思ひたつた仕事なのに?」
 彼女は、私の想ひなどには夢にも気づかずに強ひて気嫌を直して、そんなことをすゝめた。
「余外(よけい)なことを云はないで呉れ。」と私は、弱々しく歎願すると、にわかに悲し気に頭をかゝえて其処に打ち倒れてしまつた。まつたく私は、吾家にゐると母や妻が