牧野信一
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
牧野信一
「あんた東京の学生さん?」
「うむ……」
「おゝ、嬉しい、妾も東京よ。」
また隣りの洋食屋に私は移つた。「いけ好かないアンちやんだよう、誰がおなじみなのよ。ふんとに人が悪い、しらばつくれて!」
……往来に転げ出ると、思ひも寄らぬタクシーが通つてゐる。「青野に会ひたい、あいつが凧のことを忘れてゐるにしても、あいつの顔を見るだけでも俺はいくらか救はれるだらう。」――屹度私は斯う呟くのである。夢中で私は、一里あまりあるB村に自動車を飛ばせるのが常だつた。私は、大声を挙げて腕を振り地団駄を踏んだ。私は、青野の父や村長の後に続いた決死の勢子達の一員に花々しく吾身を投じた陶酔をはつきりと味つた。
青野の家は、以前の姿をあたりの景色と同様に全く滅ぼして、丘の一隅に粗末な洋館に変つてゐる。闇の中に一点の灯が浮んでゐる。畑を超えた一軒家である。
「もう来る時分だと思つてゐた。妾、今日あんたの家へ行つてたつた今帰つて来たところなのよ。アラ、歩けないの!」
「青野が留守のことは解つてゐる筈なのに……あゝ、俺はまた来てしまつた。」
私は、救けられて長椅子に腰を降すと共に直ぐに跳ね上るのであつた。「青野に会ひに来たんだ。……ぢや、さよなら。」
「毎日繰り反してゐる。失敬ね、突然来て、突然さよなら!」
「あの頃は、まだ冬ちやんは赤ン坊の時分だつた、だから冬ちやんは知るまい……」
「昔の話は御免よ。今日もあんたのお母さんから昔の吾家の話を聞されて、退屈してしまつた。何んなことを聞いても妾は何とも思はない、だつて今の生活が気に入つてゐるんだもの。あんたも東京なんて止めにして此処の隣りに斯んな家でも建てないこと、千円位ゐで出来るつてさ、土地はタヾでやるわ。」
「兄さんは何時帰るだらう?」