牧野信一
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
牧野信一
「解らないんだと云ふのに!……」
「うむ、これで好い。さうだ、冬ちやんも飲むんだつたね。」
冬子が棚から取り降した洋酒を私は、勢ひ好くあをつた。「おや、此処にお父さんの油絵が懸つてゐた筈だが、あれはどうしたの?」
さう云つて私は、壁を指差した。確かに其処には兄妹の両親の肖像画が一対並んでゐたのだ。私は、兄妹の父親の肖像が見たかつた。――今見ると其処には冬子の写真が、大きな金縁の額に入つて懸けてあつた。
「それは去年のことぢやないの?」
「さうかなあ! あのお父さんの肖像も僕にははつきり残つてゐる。」
「肖像も?」
「いや、肖像画があり/\と残つてゐる。」
「何をそんな処ばかり眺めてゐるのさ。妾は古い吾家のもので何にも欲しいと思ふものはないけれど、あの馬だけには未練がある。」冬子はさう云つて馬上姿の自分の写真を見上げた。私は、其処にあつた筈の父親の肖像画に未練を繋いでゐたのだ。
「さうだらう、冬ちやんはあの馬と一処に育つたやうなものだからね。」
「まさか――」と冬子は、つまらなさうな苦笑を浮べた。彼女の眼は、此方の顔を眺めてはゐるのだが、例へれば、その網膜には実在の物は映つてゐない、何か形のない物を視詰めてゐる、明るく悩みなく一途に何かを見透してゐる――そんな風に円らに光つてゐるのだ。彼女の眼蓋は、殆んど眼ばたきを見せない。彼女の唇から洩れる言葉は、彼女にとつては徒然に吹く口笛に過ぎない――そんな感じを私に与へるのであつた。私は、悪酒に酔ひ痴れて、一途に凧の影を追つてゐるのみなのだ。そして彼女の呟く言葉も私にとつては遠い囁きに過ぎなかつた。二人は勝手に辻妻の合はぬ言葉を交してゐるに過ぎない。それが何処かの点で稀に対照されたに過ぎない。「解らないんだと云ふのに!……」
「うむ、これで好い。さうだ、冬ちやんも飲むんだつたね。」
冬子が棚から取り降した洋酒を私は、勢ひ好くあをつた。「おや、此処にお父さんの油絵が懸つてゐた筈だが、あれはどうしたの?」
さう云つて私は、壁を指差した。確かに其処には兄妹の両親の肖像画が一対並んでゐたのだ。私は、兄妹の父親の肖像が見たかつた。――今見ると其処には冬子の写真が、大きな金縁の額に入つて懸けてあつた。
「それは去年のことぢやないの?」
「さうかなあ! あのお父さんの肖像も僕にははつきり残つてゐる。」
「肖像も?」
「いや、肖像画があり/\と残つてゐる。」
「何をそんな処ばかり眺めてゐるのさ。妾は古い吾家のもので何にも欲しいと思ふものはないけれど、あの馬だけには未練がある。」冬子はさう云つて馬上姿の自分の写真を見上げた。私は、其処にあつた筈の父親の肖像画に未練を繋いでゐたのだ。
「さうだらう、冬ちやんはあの馬と一処に育つたやうなものだからね。」
「まさか――」と冬子は、つまらなさうな苦笑を浮べた。彼女の眼は、此方の顔を眺めてはゐるのだが、例へれば、その網膜には実在の物は映つてゐない、何か形のない物を視詰めてゐる、明るく悩みなく一途に何かを見透してゐる――そんな風に円らに光つてゐるのだ。彼女の眼蓋は、殆んど眼ばたきを見せない。彼女の唇から洩れる言葉は、彼女にとつては徒然に吹く口笛に過ぎない――そんな感じを私に与へるのであつた。私は、悪酒に酔ひ痴れて、一途に凧の影を追つてゐるのみなのだ。そして彼女の呟く言葉も私にとつては遠い囁きに過ぎなかつた。二人は勝手に辻妻の合はぬ言葉を交してゐるに過ぎない。それが何処かの点で稀に対照されたに過ぎない。