牧野信一
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
牧野信一
私には見当もつかない。道幅の広い瓦斯灯が昼のやうに煌いてゐる樹木の一本もない不思議な街を私は見た。私は此処こそ暗い横丁だらうと思つて逃げ込むと、其処にはペンキ塗りのバーやカフエーが軒をそろえて客を招んでゐる。たしかに知合の茶屋のあたりだと思つて、一散に駈け込むと活動写真館だつた。知つた人の影にも遇はないのは私にとつては幸ひだつたが、せめて知合ひの茶屋の行衛(ゆくゑ)を往来の人を捉へて訊ねて見ると空しく言下に首を振られる。カフエーなどは停車場の前より他には無かつた筈だ。私が母家を離れて住んだことのある竹藪を背つた家の趾らしいあたりには、支那そば屋と氷屋と居酒屋が並んでゐる。母家の趾には銘酒屋が立ち並んで景気の好い三味線の音が鳴つてゐる。私は隣りのバーによろけ込んだ。
つと遅く出掛けるのよ。夕御飯の仕度が出来た頃に、一寸と妾は紛らせて。」
冬子が知らない頃に凧上げの場所だつた盆地が、その頃は競馬場に変つてゐた。馬場に来ると大概私は、自分から降りて見物者になるのが例だつた。
冬子を乗せた彼女は、裸馬のやうに自らスタートを切つた。冬子は、小さな白い顔をぴつたりと馬の首側に吸ひつけて、振動に一微の抵抗も示さず、肢体をその背に沈めてゐるので、夕靄が低く垂れこめてゐる時刻の為もあつたらうが、眼前をよぎられても私は乗手の姿を認めることが出来なかつた。放たれた馬が気儘に狂奔してゐるとより他は見えなかつた。