牧野信一
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
牧野信一
「変だ!」と妻は、私の態度から自分の相像が当つたと思ひ違へて、眼を据えた。「ゆうべは、あなたはとう/\帰つて来なかつたんぢやないの、ちやんと解つてゐる。」
「お前は――」と私は静かに諭さうとしたが、妻の想像に弁護すると思はれるのも嫌だつたし、また思ひ返して見れば前夜の自分の行動も酷く曖昧でとらへ処もなかつた。「そんな疑ひを持つものぢやない、自分の気持を汚すばかりでなく此方の気分を……」
「へんツ!」と妻は、鼻先きで卑しくセヽラわらつた。「何が気持さ!」
私は、私自身を妻の立場から眺めて残酷に感じた。私は、相手からさう見られることに怯えを感じた。だが、説明の仕様(しかた)がなかつた。此方が、たぢろげばたぢろぐ程妻の嫉妬を掻きたてるやうなものだつた。
「吾家ではお母さんやあたしの手前が具合が悪いもので、それで勉強だとか何とかと吹聴して斯んな処に移つたに相違ない。」
「それは、さうだ。」と私は、思はず実際の気持を表白した。私は、窓に腰を降して海の上を見晴した。寸暇もなかつた激務の間に、ふと休息を持つたやうな静けさを感じた。
「それは、さうだつて?」と彼女は、苛立つて唇を震はせた。「まア、何といふ図々(づう/\)しいことを平気で云ふ人だらう!」
「…………」